無原罪のマリア


Ave Maria

目の前の燃えるようなサンセットローズに女王の爪が光る。けれどティアは、彼の名前を口にすることを躊躇した。それはティアの中で一等に強く残る響きで、確かに鮮やかな軌跡を残すのに、この赤い色は一致しない。心臓ばかりが高熱を出すのに血が流れ落ちるまで唇を噛みしめたり、喉の奥で凍りつく言葉の行方やさらわれそうになる自分がよくわからない。馬鹿げているわと頭をひとつふって鳴り響く不協和音を打ち消してその名を呼ぼうと、

ガキィィッ……!


突如彼と女王の間に身を滑らせて爪を受け止めた者がいた。真っ黒な外套が舞って、その隙間から覗く色にティアは呼吸を忘れる。


そのサンセットスカイを泣きたいくらい、知っていた。


記憶にあるものより衝撃は少なく、わりと簡単に弾き返すことができた。背中にアッシュ、いや『ルーク』の刺さるような視線を感じて思わずファントムはたじろいでしまって相変わらず目つき悪いなあと苦笑する。女王は身の毛が逆立つような声をあげたけれどファントムは微塵も恐ろしくなどなくて迷うことなく剣を鞘に収めてまっすぐに手を伸ばした。瞬間、わりと懐かしいアッシュの怒声やらティアの叫び声が聞こえてだってこれはあの子の母親なんだと胸中で呟いた。そして女王の牙がファントムをぐちゃぐちゃに切り裂いて貪ろうと迫っ てきてもその手は決して剣を掴まなくてさすがに舌打ちをしたルークが動こうとした刹那、女王の動きが、ぴたりと止まった。大きな双眸がファントムをじっと見つめると続いて何かを探るようにひんやりとした鼻を押しつけてくる。時折洩れるくぐもったぐるぐるにくすぐったさを覚えた。そして女王はまた懸命に唇を動かしてい<るファントムを見つめた。声にならないけれどファントムはずっと呟いていたのだ。彼女の、愛しい子供の名前を。するとライガの女王はファントムの襟首をまるで壊れ物を扱うようにそっとくわえて巣の中に入れて目をぱちくりとさせている彼に愛しそうに頭をこすりつけると、子供を敵から守る為に再び巨大な牙を剥いた。




膨れあがった殺気と呼びかけても返事をしない女に、ルークは舌打ちをした。

「っ、ごめんなさいっ」

「死にたいなら一人で死んでくれ。俺は御免だからな!」

そう言い切ってルークは駆けだした。本当に、こんなところでくたばってたまるか。女王の襲いかかってくる爪をぬって斬りつけると硬さに手がじんと痺れてそして鮮やかな血が飛び散り耳障りな声が耳を掠めた。やはり剣では決定打には欠けるけれどこの好機を見逃してやるつもりはない。咄嗟にルークは両手で剣を握って悶えるライガ・クイーンに躊躇いなく振り下ろそうとするとそれを阻むようにルークに向かって剣が飛んできて「、なっ……!」柄で叩き落とす。剣は見事に地面に突き刺さった。あまりのことにぼうっとしたが三呼吸分の後に怒りが湧いて衝動のままに声を荒げようとしたけれどルークと左の手の平を交互に見つめるそいつの動作がすっぽりと頭まで真っ黒な外套を包んで表情など見える筈がないのに何故だか絶対途方に暮れている顔をしているように思えてその気が削がれた。ルークは苦々しくうめいた。

「殺らなきゃなあ、こっちが殺られるんだよ……」

同じ色をしたハーモニーブルーが何も知らない卵たちを見てそう言ってるのかそれとも女王に言ってるのか邪魔をしたファントムに向けられているのかファントムにはわからなかった。もしかしたら全部なのかもしれないし、どれでもなくてただ自分に言いきかせてるのかも。

「下がってっ!」

瞬間、ルークは後ろに飛び退いた。そして大量の水流が女王に注がれて嘘のようにあっけなく息絶える。瞳からてらてらと大粒の水滴が伝ってきらきらと光る涙のように、見えた。「やー危ないところでしたねぇ」のほほんとした声音にルークは無意識に眉間に皺を刻む。さらに、ティアが声をかけなければ巻き添えをくらってびしょ濡れになっていた可能性に気づいて「てめぇこの野郎、」なおのことむかっときて皺の数が増えた。ティアも頭を押さえている。「で、その剣をこちらに向けますか?」鋭く煌めいたイノセントレッドにルークとティアは、はっとなった。見ると鈍色の外套がいつのまにか剣を握って立っていて、ルークは剣にティアはナイフに手を かけて気づいたイオンが待ってくださいと声をあげようとしたけれど───振り上げられた剣の行方は割れてない卵だった。


止めたいと思ってこの森に来たけれど、だけど本当は深い所ではこうするしかないってわかっていてそうしてまた恨まれるんだ。俺は。許されたいから呟きそうになる言葉を必死で封じて、ファントムは剣をふるった。理不尽な刃が無防備な卵たちに触れる瞬間、あの子の顔が浮かんでやっぱり呟きは洩れてしまったけれど。ジェイドたちの目が大きく見開かれたことを、彼は、知らない。黄金の森に、無情に鳴り響く。掬い上げた欠片がまだほんのりと脈打っているように思えて、ファントムはきつく握りしめていた。ああ、何て勝手なご都合なんだろう。後味の悪さは、あのときより何百倍だった。全部うまくいくことなんて本当は神様の気まぐれ並みにしかなくていつだって何かを犠牲にして代償にして蹂躙して、生きていくんだ。俯いていると、遠慮がちに手を掴まれた。突然の温かなぬくもりにびっくりしていると「、怪我してるからっ」と俯きがちにそう言われた。見ると確かに手の平にはいくつかの傷がついていた。治そうとするティアにたいしたことないよと首を横に振っても聞かなくてわりと強引に癒される。ティアの体の方がたくさんの傷がついていてこっそりとため息をついたけれど、譜術士の彼女は見逃さなくてだいじょうぶとくすりと笑った。

「やさしいのね」

ぽつりとティアはそう言った。 同時に耳の奥で、よみがえる。

「優しいのね。それとも、甘いのかしら」

何て冷たい心臓を持った女なんだろうと思った。でもそれは虚像で、しっかりと、ティアは傷ついていたんだ。謝罪の言葉を口にしなかったのは自分たちの都合で何の罪もない命を奪うことのせめてもの償いで自分なんて声が出なかったから音にはならなかったもののティアはその誘惑にすら負けないできちんと我慢していて今だったら彼女がそっと目を細めていた理由にちゃんと気づいてあげられたかもしれないのに。そう思ったら約束のこととかも色々溢れて苦しくなってティアを抱きしめていた。




しょんぼりとしているミュウにまだライガ・クィーンのことを気にしているのかと思ってティアは気の利いた言葉のひとつも思い浮かばなくて結局そのままどうしたのと訊いた。

「ライガの女王さまが言っていたんですの。ごめんねって」

ティアは目をしばたかせた。誰に、と訊かなくてもわかる。

「ボク、ぜったい伝えるんですの!女王さまの最期の言葉、ぜったいぜったい伝えるんですのっ!」

そう強く言い放つチーグルの子供を抱き上げて「うん、」煙のように姿を消したあの彼に。

「会えるわ。きっと」

穏やかに笑っているティアを見て思ったことをミュウは素直に口にした。

「ティアさんうれしそうですの〜」

思わずティアは落とした。



「誰かあの馬鹿を黙らせてくれるッ?!」

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!〜〜〜〜〜っ!〜〜〜〜〜〜っ!」

行方をくらましていたファントムが帰ってきたと思ったら逃げるように自室にこもって部屋でのたうち回っていて一歩も出てこない彼を心配してアリエッタはわんわん泣き出すやらで隣室のシンクがとうとうブチ切れてちょっとダアトは大変な一日だった。


- end -