死を思え
「其れを思え、忘れるなかれ」
割れて粉々になったティーカップを見てイオンの口から洩れたのはいつか誰かが説いた言葉。無意識に唇は弧を描いていて「ひとつやふたつが消えたって、」今まで申し訳なさそうに眉を下げていた侍女が首を傾げた。「何とも思わなかったでしょうね。あの頃なら」侍女は瞳を大きく見開くと続いて手で唇を押さえた。「気に病まないでください、カップ」その細い手が微かに震えているのをイオンは見ないフリをして、欠片をひとつ掬い上げて口づけた。
「さようなら、最低最悪で愛しい君」
あの人そう言って笑ったんですっ。目の前で泣きじゃくる少女の向こう側におそらくそうするように命令をした男の顔が浮かんで喉元にひっかかっていた小骨みたいな彼はガイの幼馴染みでありティアの兄であるとかそういう一切の事実が脳からすっぽりと消失してただ純粋に殺してやりたいと思った。最後のときでさえ、これほど憎く思わなかったというのに!壁を強く殴ると一際大きく震えて、ごめんなさいご
めんなさいごめんなさいと嗚咽に混じって笑顔で毒を盛っていた少女の、謝罪の声たちが、溢れた。本当は途方もなく殺したかったのはヴァンでもなくこの少女でもない。
「君は、僕の、命なんです」悔しくて悔しくてファントムは喉を掻きむしった。(いおん、)(いおんいおんいおんいおんっ、)呼べなくて、ごめん。
其れを思え、忘れるなかれ。其れを思え、忘れるなかれ。其れを思え、忘れるなかれ。
世界が終わる瞬間まで、やはりこの恐怖には勝てないのだろう。近づいてくる終しまいの足音をぼんやりと感じながらイオンは天井を見上げた。そこには一面に化け物と呼ばれた少女と鎖に繋がれた小鳥が一週間くらい顔をしかめていたイオンの為にいつか描いてくれた青空が広がっていておよそ綺麗とは言えない歪だけれど確かに愛しくて光に溢れているもので、イオンはとても嬉しくなった。けぽり、と喉の奥が鳴る。伝えずに逝くと決めたのは自分だから。
「イオン」
目を開くと彼がにっこりと笑っていた。少しの照れくささとはち切れんばかりの嬉しさを潜ませてイオンもにっこりと笑った。そして彼は、名前を呼ぶ。鮮やかに世界が息を吹き返して、眠りにつこうとしていた心臓もぱちっと目を覚ました。ずっとずっとそんな声だと思っていた。けして太陽みたいにまっすぐで強い光じゃなくてときどき暗い闇を落とすこともある暖かくてそうあのときどき涙を流す空みたいな声で名前を呼んでくれると思っていた。彼はもう一度優しく名前を囁いた。それが嬉しくて嬉しくてほんのちょっとだけ苦しくて涙がぽろぽろとこぼれて、彼はそれを黙って拭ってくれた。
「ぼくねぇ、」
「うん?」
「ぼく、」
「うん」
「ぼくは、」
「うん」
「きみがすきなんだあ」
「うん、」
「すき」
「うん」
「すき、だよ」
「――――うん、イオン」
「…………なんかつかれちゃった」
「じゃあ少し眠った方がいいよ」
「うん、すこしねるね」
「じゃあわたしがおこす、です」
「えぇー?」
「ファントムじゃあ一緒にねむってしまうです」
「何だよそれー」
「うん、じゃあおきたらいっしょにおかしたべよう」
「手を握っててあげるから」
「だから」
「おやすみ」
おやすみ、そう言って目を閉じて。
開いたそこには、ほら、望んだ陽だまりがありました。
- end -