摘み積んだ罪が満ちた A


A Feeling Of SinA

その日世界は無性に彼の神経を逆撫でした。やたら青々と晴れ渡っている天に譜石がきらと光を弾き花が笑い鳥が歌うなどといったさま、そういった彼の視覚や聴覚に嗅覚触るものすべてが、こころのうちをさざめかせた。舌打ちをしようとして、瞬間、脳裏にこの青に溶けるようにして消えた朱い背中が揺れる。絶対に溶ける筈のないあの色彩がじわじわと侵食されていくように…………、そこまで考えて彼は舌打ちを再開した。馬鹿らしい。こんな日はお人好しの上に十一個くらいの馬鹿がつくあれで気を晴らすのに限るのにあれは独り命令を下され今朝がた旅立ってしまって当然自分も行動を共にするだろうと思っていたからなんとなくその事実に納得しかねて口を動かしたら『…………いま、アリエッタを独りにするのは不安、なんだ。あの連中がまた馬鹿なことをしでかすかもしれない。…………腐りきってる』心根が。もしも声帯が鳴っていたのならばおそらく吐き捨てるような口調だっただろう。翡翠いろは怒気を孕んでいた。少女は数日前から体調を崩して臥せている。少女の、教団内における立場は、非常に危ういものだった。畏敬のまなざしで見られる六神将の一席にその名を連ねていても少女はその生まれゆえに疎まれ畏怖され迫害されていた。中には少女の不幸をこれ幸いとばかりに念入りに研いでいた牙を向ける輩がいたのである。ここは、あるときは天国の箱庭で、あるときは地獄の牢獄で、あるときは深淵の墓標だった。悩める人間を女神ユリアの加護で救済することをよしとしている教団の実態が、これだというのだから救われない。つまびらかにことを訊いた訳ではない からわからないがおそらく過去にも少女は命を狙われたのだろう。だから傍で守ってやってとあの翡翠をゆらされれば、彼はもう観念して、頷くしかなかった。そうしてとりあえず少女が眠っている部屋にこもって────思い出して、彼は背筋をふるわせた。少女があれの名前をくり返しくり返し口にするのは常のことだが、「ファントム、ファントム、」老婆のようにしわがれたこえでささやくのは初めてだった。考えすぎかもしれない。病気のせいだからかもしれない。しかし延々と続くうつろなこえは青に溶けた朱を連想させてそれはまるで彼に落ちこむやみを暗示しているようだと思ってしまった。その間も絶えずこぼれる「ファントム、ファントム、」にとうとう自然に手が動いて、黙れ、彼は少女の首に手をかけていた。と、扉を叩く音が耳を打った。冷ややかな汗が一気に吹き出して、はっとする。一体、何をしようとしていた?動揺している自分に動揺して、彼は反応を鈍らせた。催促するように再度ノックが鳴る。首をひとつふって打ち消して、そのとき視界に入った燭台に眉をひそめながらも、手に取っていらえた。──譜業灯が当たり前のように普及しているこのご時世に、まったくご丁寧なことで。気配はひとり。殺気はない。かといって丸腰を装っているわけでもない。しかし可能性は捨てきれない。蝋燭を投げ捨てて、腰を落とす。扉が、開かれた。瞬間、彼は一切の迷いもなく燭台の切っ先を来訪者に向けた。現れたのは、ベールにエプロンドレス。一瞬にして侍女のそれだと知る。手には水が張られた洗面器を持っていた。その意味するところに気づいた彼は残り髪の毛一本分のところで止めた。女は悲鳴のひとつもあげない。固く閉ざされた瞼がベールの隙間から覗く。ああ、目が見えないのか。くちもとを崩して、女は訊いた。

「アリエッタ様の、ご加減は如何でしょうか?」

それを耳にした彼はとりあえず燭台を下ろすことにした。やはり殺気も、装っている気配もない。

「…………アンタ、誰?」

女は辺りを探すようにして見回し、ある一点で動きを止めた。そして些かの躊躇いもなく歩き出す。辿りついた女は膝を折り「申し訳ありません」控え目なこえでそう断ってから眠っている少女の頬に触れた。その態度に、彼は仮面の奥でその目を瞬かせる。女は額の布を取り洗面器に浸した。耳触りのいい水音が室内にあふれる。

「名前のことを仰っているのでしたら、わたしに名前はありません。わたしは一度死んだのです。あの方を…………あの方が、亡くなられたときに」




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