行方知らずの青い鳥


Lost Blue Bird

ティーカップのお茶はすっかりと湯気が失せていた。 あの日をきっかけにヴァンに与えられたこの部屋の調度品すらも憎らしく思えて、ファントムはベッドに目もくれないで固い床の上に横になる。ふいにアリエッタの泣き顔が浮かんで頭を叩きつけて消えたと思ったら今度はかつての仲間たちの視線を思い出してもう一度さっきより強めに叩きつける。少女はあの日から自分のことをわたしではなくアリエッタと言うようになった。それは肩口で切り揃えられた髪が背中まで届いたのと同じくらいの些細な変化。少女はそんな些細なけれどとても大切なものを何処かに落としてきてしまったのだ。(それが何なのかはうまく言えないが)世界はとうに終わっていたのだと知らずに少女は今日も生き続ける。ああ指をさして笑っている愚者たちなど死んでしまえ!


隅の方でぎゅうぎゅうに丸まって柔らかそうな頬を冷たい床に押しつけて眠っていた。彼は眠るときはいつも右側を向いて寝る。左側だと心臓が圧迫されて耳障りなどくどくが聴こえるから苦手なようで真正面は首を絞められている気がしてもっと嫌いらしい。(実はシンクも同じような理由から常に右頬を枕にするけれどそれは誰にも知られたくない秘密)と、彼の口が僅かに動いたような気がしてそっと呼びかけると、ゆっくりと彼の口唇が動いた。それは誰かを呼ぶような仕草に見えるししかもシンクの知らない単語で口唇が弧を描いているように見えたのは気のせいか。何だか果てしなく腹の底がむずむずとなって無防備に眠っている彼の鼻をつまんだ。躊躇いなく。思い切り。

「早く起きないと、死んじゃうよ?」

段々と苦しげな息をあげる彼を見て、シンクは鼻歌を口ずさむ調子で言った。



「朱い鳥、って有名なんだよ」

「まぁあ、とても素敵な名前ですのね!子どもの頃読んでいた物語に出てきそうですわ!」

王女がきらきらと目を輝かせて何処かうっとりと言うと賢明にも大変物分かりのいい婚約者は若干顔を引きつらせただけでその使用人は「姫はわりとロマンチストだから勘弁してやって」的な視線を説明役の少女に送った(こういうときジェイドは面倒くさいから気配を殺している)。「でも、なぜですの?」とナタリアがごく自然な流れで彼がそう呼ばれる由縁を訊くと「それはぁ〜、」開かれたアニスの口唇がわなないてそれきり少女は口をつぐんだ。その様子にみんなが顔を見合わせる。

「っ、知らない。いつから、誰が、なんで、そう言い始めたのか、……たぶん、だれも、しらない」

「髪の色、」

と、心地いい声がふたつ綺麗に重なって、無意識に視線がそこに集中する。独り言のつもりだったのか、ティアは少したじろぎながら言葉を紡いだ。

「わ、わたし、見たの。チーグルの森で」

「彼の髪の色からついた通り名だと思います。とっても綺麗な髪なんですよ。例えるなら、そうですね、日が沈む前の空の色。夕焼け、でしょうか……」

懐かしむように目を伏せてイオンは言った。彼が今まで見たこともないような誇らしげな顔をしていたのでアニスの胸が苦しくなる。あれれれ?ちょっとあいつが羨ましいぞ。なりたいなあ。わたしもこんな風にイオン様の大切なひとかけらになりたい。なれるかな。アニスはきゅっと口唇を噛みしめた。

「失礼ながらイオン様と彼の関係は?どうやら認識がおありのようですし。フーブラス川やザオ遺跡での一件を考えてもね」

ジェイドは容赦がなかった。どんな時でも冷静にその赤い瞳に世界を映し物事を天秤にかけ決断する。そこには一切の彼の人間的な感情はなくてナタリアは正直ぞっとして、それを見透かされたくなくて彼女は彼のそういう顔を目の当たりにする度に誰よりも先に声を荒げた。(仲間の中で最もつき合いの浅いしかも王女様が泣く子も黙る死霊使いに躊躇なく噛みつく様を見てアニスは舌を巻いていた。「な、ナタリアってけっこー強者だよね。天然って、怖いなぁ」ルークは「昔っからこうだったよ」と肩をすくめながらもまるで自分のことのように誇らしそうに言うものだからアニスによくからかわれた。)そんな風に怒る彼女にジェイドはいつも微笑む。「人非人で大いに結構。私は冷たいですから」けれど、彼は、人間なのだ。

「彼は、ファントムは、……僕の友人なんです」

その質問にイオンが答えるまでわりと時間がかかって、とても寂しそうな笑顔を浮かべた彼にあのジェイドでも僅かばかり言葉を見失った。



「ぶはっ!っくくくくくくくく、おっ、おっかし……!くくく、っし、しぬっ……!いっいたたっはははっ!」

ファントムは真っ赤になりながらシンクを枕で叩いた。ぼふぼふと鈍った音が部屋中に響き渡る。それすらも彼の笑いに拍車をかけているのだけれど恥ずかしさのあまりちょっとそれどころじゃなかった。綺麗な顔をしてこいつも負けず劣らず性格の悪さは破滅的に矯正しようがないと思う。

「っくく、は、はい、これ」

と目の前に器が差し出されて、覚えのある甘い香りがファントムの鼻をくすぐる。それはシンクが熱を出したときに作ってあげたコンポートで昔、というか、今はもう決してありえないルークの記憶の中だけに存在するあの頃、風邪で寝込んだ彼の為に彼女が作ってくれたものだった。どんなに病人に優しい料理ものどを通らなくて料理上手なアニスがほとほと困り果てていて彼女のそのコンポートだけが唯一食べることができた。熱が下がってさんざんやっぱ愛の力ですかあなんて言われたけれど。もしかして色々ばればれだったのか。ほんのりとキンモクセイで香りづけされた桃の砂糖煮が大抵生クリームを乗せて食べることが多いとガイが耳打ちしてくれたおかげとひんやりと冷えたわりと底のある皿に甘いものが得意じゃなくて熱で弱っていたしたぶん普通の皿だったら零していた自分に彼女がどれだけ心を砕いてくれ たのかわかって嬉しくてたまらなかったっけ。

「それ、リグレットから。お茶も飲んでないじゃん。あーあ、すっかり冷めてるよ。まったく」

出された名前にファントムは目をぱちくりさせた。リグレットが?そんな様子はお構いなしにシンクはぶつぶつ小言を続ける。

「あんたがぐずぐずぐずぐずしてるとそのうち涙の海がつくれちゃうよ」

最高の嫌味に誰にと言わなくてもわかった。ずしりと胸のあたりが重くなって無意識にため息が洩れる。ファントムだって、彼女に後ろ指をさす愚者たちと変わりはないのだ。

「っとにーうっざいなァ。いいからそれ食べてさっさと寝ろ。あんたの虫みたいな頭じゃ考えるだけ時間の無駄だ。ご飯食べて、眠って、明日になったら笑ってよ。リグレットがわざわざあんたの好きなお茶を淹れてくれてアリエッタがずっと泣いてた。うるさいったらありゃあしないからディストに押しつけてきたけど。ラルゴはさっきから何度もうろうろしてるよ。ここまで言ってもわからないくらいあんたは低脳かい?生憎とお飾りなようだからね言わせてもらう。みんな、あんたを、心配してる。だからそれ食べて眠って明日になったら笑ってほしい。てゆーか笑わないと殺すから死ぬ気で笑え。いい?ぐずぐずは、今日まで!」

ファントムはシンクからティーカップを奪うように取って一気に飲み干した。その冷たさがのどを刺す。冷たいけれど、でもとても暖かい。俺はやっぱり最低でどうしてこういうことにどうしようもないくらい鈍いんだろう。

「何にぐずぐずしているのか知らないけどそうゆうのは迷惑なんだよね。かなりうざい。リグレットが余計怒りっぽくなるしアリエッタは、もう、騒音だよ」

シンクのおどけた調子にファントムは思わずのどの奥が痛くなってそれを誤魔化すように桃のコンポートを放り込んだ。あまいあまい花と果実に混ざる微かな苦味を感じて確信する。たぶんリグレットなら焦がすような真似はしないだろうしキンモクセイの果実酒の桃の砂糖煮を知っているのは。

「……ファントム?」

限界、だった。シンクが目の前にいるとか格好がつかないとかそれでもどんどん溢れてくるものは止まらなくて涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながらファントムはひたすら絶対口が裂けても名乗りでない彼が作ってくれたコンポートを食べていた。ばっかだなぁ、お前。あれ知ってるの、お前くらいだっての。

「、っ、僕は、あんたのそうゆうところがだいっきらいだ……」

むすっと、不機嫌そうな声が降ってきた。耳が真っ赤だったから、照れてるんだと思う。



「え、ちょっ、それ、初耳ですよイオン様!」

心底驚いたような導師守護役の声にイオンは申し訳なさそうに眉を下げる。

「すみません。今まで黙っていて……。ただちょっと、」

イオンはその先を考えあぐねているようで自然と言葉が途切れた。

「ちょっと、胸をはって友人だとは言えなかったんです」

「仲違いでもしたのかい?」

「いいえ、ファントムは悪くないんですよ。何にも。僕が、全部、悪いんです」

「いっイオン様ぁ。そんな、そんな悲しいこと言っちゃ駄目ですぅっ!」

「……はい。ああっすみませんみなさん。暗い気持ちにさせてしまいましたね。ジェイド、これで良いでしょうか?」

「充分です。ありがとうございました。しかしイオン様の御友人と言えども次は手加減はできません。目的が明確にならない以上邪魔立てをするのなら私は彼を殺します」

「そんなっ、」

非情な発言に声を荒げたのはナタリアでも友人を殺すと言われたイオンでもなく。完璧に感情を律する化け物のようなティアだった。いつもは何かを抑えつけたような女性にしては低めな声が高くなっているのを耳にしてナタリアは微笑んでいた。ああ。やはり彼女も人間なのだ。きちんと感情のある人間なのだ!「盲目ですわね、恋は」ぼそりと呟いて彼女は最愛の人の手を握った。突然のことにその人はびっくりしたようだけれどきちんと握り返してくれた。

「でもっ、彼がそうだとは私には思えません!何か、何か理由があるんだわっ」

「ではあなたが彼をそうではない、と判断する根拠は何処にあるのですか?」

淡々と言葉を紡ぐジェイドにティアはかっとなった。鮮やかなあのあかが瞼に焼きついている。駄目だ。滑り落ちる言葉のどれもが納得させることはできなくてだってそれはティアの心が感じたもので確かなものなど何一つないのだ。あの人から聴こえる歌を歌えば信じてもらえるのかしら。

「答えられないでしょう。それに私は、そんな悪戯がすぎる名前を簡単には信用できません」

それが誰の声なのかを理解するのに数秒の時間を要した。

「……どういう、意味だ」

ジェイド以外の仲間が強く息を呑む。聞いたことのない様なとても低い声で、あのガイが本気で怒っているのだと気づく。幼馴染みの変貌ぶりにナタリアは怖くなった。小さな声で彼の名を呼ぶけれどふり返ってはくれない。真正面から睨まれたジェイドはフレームの奥の瞳を細めただけで何も答えようとはしなくてガイの瞳にさらに物騒な光が宿って感情が消えたような(いや、感情を完璧に押し殺したんだ。あまりの怒りに!)声を出した。

「イオン。それは、どういう意味だ」

数呼吸分押し黙ったイオンはそれから絞り出すように言った。

「ファントム、とは白昼夢とか実在しないとかそのような類の、意味なんですっ……」




- end -