わたしのスピカC


Dear Dear Spica C

停滞していた思考は男の舌打ちで明瞭になった。皺ひとつない青色の軍服に微かに漂う香水すらも憎たらしい。「…………てめぇ、」ルークは胸ぐらをつかみあげると男の服が乱れて普段は隠れている首がちらとその存在をのぞかせた。やたらと無防備な白さが鼻について、いっそこのまま首を絞めてやろうか、という考えがよぎる。

「…………目の前に背を向けた敵がいました。そして私は絶好の機会を逃すことなく、この槍で、敵を排除しようとした。ええ、敵と言えど人の命は尊いものです。自身の命をかけてまで彼を救おうとした彼女の行動は実に涙ぐましい。話になりません」

小馬鹿にしたような男の、ジェイドの口調は本当にこのまま絞め殺してやりたい気分にさせたけれど、心の底から遺憾なことに非は見つからない。それも、微塵も。…………最初に何かが光ったんだ。きらきらと何かが放物線を描いて落下していってあの男の動きが止まってそれまで握っていた剣を放り投げてルークたちに背を向けた。皆が呆然とする中で唯一ジェイドだけが理にかなった行動を起こした。そうしてあっと思った瞬間に赤い血が飛んで大分見慣れた淡い榛色のロングヘアーがまるでルークたちからそいつを守るように広がる。長い長い髪に隠されてけれど隙間から洩れて輝く紺碧。吸い寄せられるように見てしまったルークは、はっと息をのんだ。強いのか弱いのかよくわからない瞳をする女だった。言うなれば、薄氷を踏む危うさ。常に平坦を装おうとするそれが不意に音を立てて燃え上がったり揺らいだりするのを見るのは決して嫌いではなかった。けれどこれはだれだ。こんな目をする女をルークは知らない。あのアイスブルーはたぶんこんな色じゃあなかった。じゃあ目の前のこれは、だれだ。悲鳴かそれとも布を切り裂く音を拾ったのか闇色の外套はふり返って崩れ落ちてゆく細い体を抱えた。剣よりもきらきらよりも何よりも百万倍、大切そうに。二人は足元を崩して奈落の底へと落ちてゆく。そしてそれを追った金髪の青年。視界から手の平からこぼれて消えていった…………。ルークは降って湧いたある感情を胸に納めようとしてくちびるをきつくきつく噛みしめた。自分が言葉を投げようとしている相手は死霊使い。ものごとの合理性を最優先するようなこの男に私情でもって返せば一笑にふされてしまうのは明かだったから。掴んでいた軍服から乱暴に手を離し、無言で身を翻す。背中に「ルークっ、」馴染みの声と、もうひとつ。

「酔狂な方ですね」

その言葉の真意に気づいてルークは眉根を寄せる。足を止めて、ちら、と見やると、うってかわって男の双眸には楽しそうないろが宿っていた。本当に油断ならない男だと認識を改める。よくぞこんな短期間で調べ上げたものだ。

「…………王族としての務めを果たすだけだ」

すべての民を導き助ける。───たとえ、どんなに憎まれていようとも。ルークは前を見据えて呟き、駆け出す。やがて、四人分の足音も後に続いた。






(…………どうしよう)

おそらく落下したときに打ちつけた鈍く痛む頭でファントムは何度も何度もそう思った。一生分のどうしようを使いきっている気がする。絹のように綺麗な榛の髪を地面に横たえて汚してしまうのは忍びなくて彼女と地面を交互に見比べて逡巡した後、とりあえずは自分の膝に載せてみた。そこから広がる温もりに安心して不覚にも涙が浮きそうになったけれど鼻をかすめる鉄の臭いに慌ててそれどころじゃないと頬を叩き腰に下げていた道具袋を漁ろうとしてそれがなくなっていることに気づき近くをざっと見回す。どうやら落下途中で何処かに落としてしまったようだ。止血をしようにも適当なものが見当たらない。砂で汚れてしまった服や外套を傷口に当てることは躊躇われた。ならば残された方法はひとつしかなくなるのだけれどはっきり言ってかなり自信がない。素養、というかファントムの体はそれで構成されているのだからひとつくらい使えてもいい筈だと思うのに過去の経験では一度たりとも成功したことがなくて…………あれ?不意に心臓がざわついた。死んでしまった人間が音譜帯にも還らずに過去に戻ってくるというこの異常な現象についてファントムはよく考えていなかった。いや無意識に考えようとしていなかった。どうしてこんなことが起こってしまったのかとかどうして自分はここにいるのかとかそんなことを考えるだけ無駄に時計の針が進むだけで答えてくれる者がいないことは思い知っていたし、その疑問はやがて恐ろしい疑問を導きだしてしまうことになんとなく気づいていたから。けれどさらさらと砂が落ちてくる音に混じって時折響く水の音と自分と彼女の息づかいだけが 聞こえる静かな世界は、それをするりと忍びよらせてしまうにはじゅうぶんな環境だった。まるで嘲笑うように心臓が脈打ってそれまで懸命に見ないふりをしていた考えがとうとうぽっかりと浮かんでしまった。…………この体は、ほんとうに、あの頃の俺のものなんだろうか?と、薄い肩から緩やかにけれど確実に赤いものがこぼれ落ちてゆくのを視界に映して、はっとした。今は何も考えるな…………。いつの間にか止めていた息をゆっくりと吐き出して強引に雑念をふり落とす。目を瞑る。ゆっくりと息を吸う。目の前の傷口だけに集中する。治す。治すんだ。いつだって見ていてくれてもう駄目だってしゃがみこんでしまいそうな俺のことをいつだって叱ってくれていつだって引っぱり上げてくれたこの手を、絶対にぜったいに治す。ファントムはその手をきゅっと握り固く瞼を閉ざしている陶器みたいな額に自分の額を寄せて祈った。お願いです。お願いします。どうか力を貸して下さい。ティアの手を治してあげてください…………。けれどいつまで経っても術が発動する気配はなくて嫌な考えが脳裏をよぎり始めた頃、誰かがしょうがないわねえと笑ったような気がして目を開けると血は止まっていた。辺りにはやさしい光の残滓が漂っていてそれがふわりと自分の頬を撫でたと思ったらぱちんと鼻先を叩かれてそれと同時に今度はちゃんと呼びなさいよと言われて目をぱちくりさせているとあんたがあんな呪文も唱えられないほど低脳じゃないことを祈ってるわまたねという何処か楽しそうな調子の声を最後に消えた。ファントムは慌てて唇を動かしたけれど間に合うことも声になることもなくて、だから胸中で呟いた。ありがとう。…………何だか少し、のどの奥が痛かった。傷が塞がって心なしかティアの呼吸が穏やかになったように感じて、ファントムはほっと息を吐いた。ようやく冷静に自分の置かれた状況を整理する余裕が出てきて、少し離れた所で淡く光を放っている存在に気づく。振動で起こしてしまわないように慎重に片方の手を伸ばして引き寄せた。砂をかぶっていたもののその美しさは損なわれていなかった。よかった…………。砂漠で出会ったあの人には本当に申し訳ないことをしてしまった。絶対に見つからない預かりものをきっとなくしてしまったと思ってすごくすごく捜してくれて最終的には泣いてしまったかもしれない。(ファントムがオアシスを発つとき見えなくなっても手をふり続けていたような人だ。随分遠く離れてもしばらく男の泣き声が聞こえたのでたぶんそうだと思う)見つからなくて当然だ。確かに預けた筈のそれは一体何の力が働いたのか自分の手元に戻ってきてしまっていたのだから。預け忘れたにしてはしっかりと男に渡した感触が残っているからその線は考えにくいし、とゆうかそこまで間抜けていて欲しくない。お前羽でもついてたのか?こつんと星を封じ込めたような宝石をつついて、元の持ち主の指にそれを絡める。すると瞼が一瞬ふるえたような気がして心臓が跳ねたけれど結局あのりんとした紺碧は姿を現さなかった。ほっとしたのとがっかりしたのがない交ぜになって思考がそれた。ああほんとう睫毛ながい。鼻はすっと通ってて、くちびるはかさついてるけどそこからこぼれ落ちる声を想像するだけで嬉しくなるし、こうやって少しだけ開かれてるくちびるってなんかあれな気が……………………しない!ないっ!いまなに考えたじぶんっ…………!思わず負傷していることを忘れてファントムはぶんぶんぶんと頭をふってしまった。当たり前のように頭に痛みが走って顔をしかめる。落下したのが一人だったならば相応の受け身がとれただろう。けれど一人ではなかった。一人ではなかったのだ。六神将と行動を共にしているファントムは自然彼らと対峙することになる。今回も例外ではなかった。ファントムは率先して前に進み出ようとしてけれどさして長くもない髪をがしりと掴まれて格好悪くのけぞってしまった所に「馬鹿は後ろでイオンを守ってろ」なんだかものすごくひやりとした声が落とされて阻止されてしまった。もしかしてオアシスで単独行動をとってしまったことを根に持っているのか。それとも雨に濡れたのと砂漠の太陽で少し崩してしまった体調を看破されたのか。どちらにしろ分はかなりこちらのほうが悪いので大人しく従った。あと、ここで女王さま(…………男だけれども)に逆らう勇気が純粋になかったので。そうして最初は静かに後方に控えていたのだが、破滅的に可愛くないその少年が片膝をついて荒い呼吸をくり返している姿やかつての幼馴染みが実の父親を射らんとしている姿を見て、剣を抜いてしまった。向かってくる矢を薙ぎ払い一気に距離をつめる。負けん気の強い夏草いろのひとみが少しだけ恐怖にひきつった。胸中で謝りながら武器だけに狙いを定めてふりあげる。その瞬間、幼馴染みは戦意喪失どころかかえって弓をきつく握りしめてしまったようで少しの抵抗を見せたけれど、くるくると吹き飛 んだ。手、怪我してないといいな。そんなことを思いながら予想を裏切らないというか予想以上の物騒な光をたたえて斬りかかってきた赤髪の青年を受け流して、なんとなく飛び退くとその辺り一帯が焦土と化した。っぶねぇ…………。さすがというか微塵も情け容赦ない死霊使いの譜術に冷や汗が流れ落ちる。(味方識別してあるとはいえばっちり術範囲にいたあいつはおそろしくないのだろうか。この頃くらいの俺といえばいつか自分が背後のこの男に敵もろとも殲滅されるんじゃないかとびくびくしていた。そんな妄想を抱いてしまうくらい男の譜術は思いきりがよかったし笑顔で間違えちゃいましたとか言いそうな性格だし)色々な意味でどきどきしてきた心臓を落ち着かせる間もなく制作者と使用者の特性がよく表れている人形が飛びかかってくる。切りつけるとなんだか一生根に持たれそうな上に後々それを材料に脅迫されそうだと瞬時に判断したファントムは身をよじることにして、拍子に、ポケットから何かがすり抜けてしまったのを感じた。視線を向けるとそこには星を散りばめた夜が広がっていて、あっと思った瞬間には駆けていた。「ファントムッ…………!?」迫る白刃のひらめきなぞ知るものか。今まさに踏み出した踵の先が奈落の底なぞ知るものか。この目に映るのはあともう少しで掴めそうな紫だけ。こぼれてしまう。こぼれ落ちてしまう。大切なものをくれた彼女のいっとうに大切なたからものが。さあ、手を伸ばせ!そうして限界まで伸ばした指先がついにその冷ややかなからだに触れて、自然と頬がゆるんだ。まるで彼女を抱きしめているような気さえしてくる。今はもう前のように彼女の隣で喜びや苦しみや悲しみを分かち合えないけれど、この瞬間だけは自分が誇らしかった。ちゃんと返すからだからもう少し待っててくれ…………。すると布を切り裂くような音に重なって悲鳴が上がった。ふり返って息をのむ。そこにはある筈がない光景が広がっていた。ジェイドあたりが槍をふりかぶった気配は感じていた。けれどそんなことはどうでもよくて落ちてゆくあの紫のほうが大切だった。掴んだ瞬間、守ることができてほんとうに安心した。自分を褒めてやってもいいとすら思った。なのに彼女はファントムを守って傷ついてこんな所に、いる。自分と彼女を結ぶのは敵という関係だ。敵に対して容赦を見せたことなど一度もない彼女がそれどころか助けた。どうしてだろうという思いもあって、でも同時にそれだけで十分だった。ガイやジェイドやアニスやナタリアやアッシュやティアに剣を向けるために無理やり折り合いをつけて本当はばらばらになりそうだった心に、あたたかなものが響く。にじむ。たとえこれからどんなことが待ち受けていたとしても耐えていける気がした。まだここで、頑張れると思った。不意にある言葉が浮かぶ。それは彼女がよく口にしていたもので、時に厳しく悲しく優しく「ルーク」にくれた言葉だった。なぞるように呟く。

(……………………ばか、) 

そんなに傷だらけになって。俺なんか助けて。お前、後でジェイドにたっぷり嫌味言われちゃうぞ。ナタリアだってきっと心配して、ぜったいめちゃくちゃ怒る。でも。

(、ありがとう、ティア)

翡翠を覆っていた水膜が割れて、ぽろりと彼女の頬にこぼれ落ちた。






そこから少し離れた暗がりに溶け込むようにして片膝をついている青年がいた。暗闇を金色の髪がはじく。見たところ差し迫った怪我を負っている訳でもなさそうなので彼は黙ってその場から離れた。壊したくなかったのだ。目の前に広がる聖域のようなその光景を。あれは彼の胸にかつての故郷を喚起させた。戻らない最愛にして最悪の場所。奪われた瞬間にそれがどれ程自分にとってかけがえのないものであるかを知った。瞼の裏の姉や両親や使用人の顔に重なるようにして浮かぶあかい髪。見る者の心をほぐすようなあの。もう二度と奪わせてなるものか。覚えず、拳を握りしめた。と、かすかな振動に気づいて青年は柄に手をかける。現れたのは、仮面の子どもと獅子のような男。「…………なんだ、あんたたちか」気が抜けてそんな呟きがこぼれてしまって子どもは気分を害したように踵を返し始めたので慌てて引き止める。

「あいつならこの突き当たりにいる。来る前に、迎えに行ってやってくれ」

子どもは歩を止めて、こちらをふり返った。くちびるには歪んだ微笑がはかれている。仮面に隠されて見えないけれど目許にもたぶん。

「これでもいちおう仲間ってことになってるんだ。俺が出ていく訳には行かないだろう?」

「生憎と僕は貴様を信用してないんだ。何せ、幻惑だからね。特務師団長サン?」

耳が痛い言葉でもあった。けれど、あの子ども以外の人間に自分がどんな印象を持たれようが関係なかったのでガイは「べつに」微笑みで返した。べつにお前たちの信用も信頼も親愛も必要ないんだよ。水色の瞳が冷ややかに嗤う。子どもの口許に皺が刻まれた。

「…………シンク。死霊使いに先を越されると厄介だ。今は、聞き入れたほうが懸命だと思うぞ」

捕虜にでもされかねない。それまで沈黙を守っていた男が口を開いてシンクは舌打ちをひとつした。そしてさっさ、と横を通り過ぎようとすると、「あっ」というすっとぼけた声が上がった。

「やっぱりあと一分だけ待って」

「はぁ?」

「……………………馬に蹴られて、死ぬ」

至極真面目な顔つきで裏切り者の男はそう言った。






これがほしかったんだろ?星の川を流しこんだような宝石を差し出されて、首をふる。ちがうの。じゃあなんだよ。そう言われて、のどがつまる。わたしはいったいなにがほしかったんだろう?じゃあもういいよ、ぷうと頬を膨らませた。そうしてそのまろやかな頬がばらばらと剥がれて崩れていってわたしはやだやだやめてよなにするの泣きながら欠片をかき集めて全部拾ったよと顔を上げた瞬間、跡形もなく消えていた。約束なんてほんとうはいらなかった。欲しかったのはたぶん───。



紺碧を覆っていた水膜が割れて、ぽろりと一粒こぼれ落ちた。

- end -