わたしのスピカB


Dear Dear Spica B

ことの顛末を聞き終えるとティアは「信じられないわ、」と洩らした。その信じられないことをやらかした本人はさらり、聞こえないふりをした。すると彼女はその美しい紺碧をひき絞るように歪めて今度は一言一句、針を含ませるように「し、ん、じ、ら、れ、な、い」低く唸った。こんなにあからさまに弱そうなひとに手をあげるなんて!確かにティアの発言はとっても的を射ていた。とっても。とっても。後ろでガイとアニスが「うわ、直球」と綺麗にそろって言うくらい。ルークはその言葉を受けて、は、ははは、と実に虚ろな声で胸を押さえて笑っている男を見て、少し、ああ、ほんの少しばかり、己の所業をちらと反省してもいいかなとか思っていた。と、砂避けの外套からこぼれた蜜色の髪が羽のように舞って「あなた、ごめんなさいね」彼の王女はナツメヤシでくたびれている男に駆け寄った。突然飛び込んできた長い睫毛とかたぶん陽射しのせいでうっすらと薔薇色に染まった白磁の頬とかにどきまぎしながらこたえる。「いっ、いいえ、そん な、ぜんぜんあれですへいきですぜんぜん!僕の方こそ、そのぅ、あんな、…………み、みっともなく、」言っていて我ながら本当に恥ずかしい。よりによってこんなきらきらしてるきれいな女の子に見られてしまったなんて。(どう見ても自分のほうが年上だしお会いしたことなんてひとつもないけれど何だかお姫さまに口をきいてもらっているようなそんな気分になってしまって、思わず敬語で喋っていた)「そんなことはありませんわ!ふふ、わたくし、殿方の涙ってとても好きなんです」「すみません…………えっ、だっ、すっ、すすすき?!」聞き慣れない単語が耳を滑って変な声が飛び出した。きれいな女の子はそれにも動じずに「ええ。あなたの涙もとても素敵でしたわ。───あんまりきらきらしていらっしゃるので、真珠がこぼれたのかと思ってしまいました」とこちらに笑顔を向ける。だから恥じることなんてなにもないと暗に言ってくれた女の子の気づかいが嬉しくてけれど恥ずかしくてけれどやっぱり嬉ししくて、顔をうつむかせながら何 とか絞り出した声でお礼を言う。すると手の甲に熱を感じて、見るとくすんだグローブが添えられていた。袖口で結ばれた水色のリボンが肌をくすぐる。「あなたをお助けしたいのです。だからどうか、わたくしに話して下さいませんか?」すると「わははは〜ちょうっとごめんなさーい」という若干猫の剥がれた少女の声がやわらかな雰囲気をぶち切ってナタリアの腕を取って(赤毛の少年は腕を組んで密かに立ち上らせていた殺気をほんの少し、弱めた)男から背を向けてこそこそとわめいた。

「あんた今がどういう状況かわかってんの?!」

「あんたではありませんわ。ナタリアです。…………名前も覚えられませんの?」

乱れた外套を正しながらナタリアはすました顔で言った。

「…………あっはーすみませんねえナタリア、さ、ま!わたしたち今ちょう時間ないんですようわかってますー?どこかのおぼっちゃまが嫉妬のあまりあのひとぶん殴って気絶させてくれちゃってじゅーぶん時間とられてるんですよねー手がかりは見つかってないしー心優しいお姫さまがぁきちんと介抱してあげたわけだしー後はもう適当にサヨナラすればいいじゃないですかとか聡明なアニスちゃんは思っちゃうわけなんですよう」

可愛らしい口調のけれど底辺を這う声がするすると飛び出る。ナタリアは手を止めて自分の胸元くらいしかない少女をじっと見据えた。急に彼女の纏う雰囲気が変化してアニスはたじろぐ。…………だって、本当のことだ。六神将に連れ去られてしまったイオンの 安否と居場所がつかめていない今はこんなちっちゃいことにかまっている余裕がないし、てかこいつ馬鹿じゃん、とすら思う。アニスは泣いている人がひどく嫌いだった。特に大声を上げて泣いているのなんて最悪だ。わんわんゆって同情を引こうとしている魂胆にしか思えない。自分のことは自分で責任を持たなければいけない。助けてくれるひとなんて、誰もいないんだから。

「わかっていますわ。時間がないことも、わたくしたちがやらなければならないことも。けれど。わたくしは、王女です」

りん、とした声がアニスを現実に引き戻して、いつの間にうつむいていたのか、顔を上げると強い意志を沈めた夏草色の双眸があって、息をのんだ。

「すべての民を導き、助けることが王族としてのわたくしの務め。目の前で困っている方をこのまま捨て置くことなど、できませんわ。…………ですから、あなた方は先に導師イオンの救出に向かって下さいませ」

「だっ、おまっ、」

「大丈夫です。必ず、追いつきますわ」

「そうじゃなくてっ、」

ルークの苛立った声は虚しくナタリアの意志はとても強固だった。ジェイドは他人ごとのように沈黙を保ちガイとティアが二人をたしなめる。ほんとう、迷惑なお姫さま…………。わがままで説教魔人で態度がでかくて曲がったことが大嫌いできちんとごめんさいとありがとうを言えるところはわりと気に入ってて今もちょっと格好いいなとか思っちゃって、だから、

「ナタリア!」

歩き始めていた彼女が途端、驚いたようにふり返る。アニスは黙って彼女のところまで歩き、短く、一言。

「手伝ったげる」

「え…………?」

「イオンさまがいたらぜったいそう言うでしょ。だから」

だから仕方なく手伝ってやるんだ、そう言った筈なのになんだかやわらかな視線が集まってきてアニスは段々と居心地が悪くなってくる。さっさ、と通り過ぎてしまおうとすると、くん、と後ろをひっぱられて、

「あ、ありがとう…………」

いつもより舌足らずな感じでしかもうつむきがちに言われて「う、あ、」アニスは頭から被っていたマントを引き寄せて顔を隠した。そこに「やー、皆さん。青春ですねえ」というなんだか絶妙なタイミングの、最悪な人選の声が落とされる。大佐はほんとうに意地が悪い。呪われろ。







ルークたちは、男が寄りかかっているナツメヤシの周りを適当に囲んで彼の話を聞いていた。(アニスとミュウは暑さに耐えきれず、巨大譜石が落下した衝撃で沸いたという湖みたいなものに足を浸しながら)

「あるひとからネックレスを預かったんです…………」

「ネックレス、」

ティアの脳裏に星を封じ込めたような紫の宝石が浮かんで、鳩尾のあたりがじくりと痛んだ。馬車に乗るために売り払ってしまったあのペンダントは神託の盾兵士になったときに兄さんがくれたもので母親の形見で、思い出がほとんどないティアにとって直接触れることのできる唯一で最愛の架け橋だったから後悔していないと言えば嘘になる。ごめんなさいお母さん、兄さん…………。

「…………はい。これを、失くして困っているひとがたぶんここを通るから、だから、渡してくれって。そのひとはなんだかとても大切そうにしていて、こ、こんな僕に、そんな、ものを預けてくれたことが嬉しくて嬉しくて、舞い上がってしまって、ぼく、はっ、それを、それをっ…………」

男は声をつまらせて黙り込んだ。その先を察したナタリアが「…………失くして、しまったんですのね」頷きながら、涙が浮く。だってほんとうに大切そうだった。ネックレスをこっちに渡す直前、こつんと額を当てて瞳を閉じて名残惜しそうにお別れをしていた。それが彼にとってどれ程大切なものであるかが伝わってきて、泣きたいくらい胸が痛かった。泣きたいくらいきれいな、光景だと思った。夕日をくべたような朱い髪の───、途端、強い砂嵐が吹いて目をつぶる。しばらくして風が収まった気配を感じてうっすらと目を開けると視界一面が一色に染まった。びっくりして瞬きをくり返していると、段々とそれは外套の外れた少年の髪だと気づく。まるで燃えているみたいなそのあかいいろに思わず男は嬉しくなった。…………なんだかそれはあのあかに、夕日をくべたようなあの朱に、とてもよく似ていて。ああそういえば彼は、あまり字が得意じゃなかったらしかった。乾いた砂の上に書かれた文字はお世辞にも読みやすいですねとか言えなくてちょっと立ち尽くしていたら『ごめん。俺、チーグルより字が汚いんだ…………』と心なしか落ち込み気味に枝が動いていっいえ稀代の天才が生みだした芸術品みたいですよとあの場は口走ったものの、確かに『あかいかみ』なんてEとDが判別でき……あれ?なんで、彼は、そんな単語を綴ったんだろう。大きな紫の粒を渡してくれと頼まれてそれで二千年前の遺跡の名前とか赤い髪がどうとか出てきて、あれ、それはネックレスを預かる前だっけ?それとも後の?というかなんでこの話の流れで遺跡とか出てくるんだ。記憶の欠片はするすると浮かび上がるのにたぶんある一点が不明瞭なせいで全てがうまく繋がらない。もうひとつ、なにか、もうひとつ大切なことを自分は忘れていないだろうか…………?「ったあーーーーー!!」途端、涙の入り混じった悲鳴が上がって意識が引っ張り上げられる。「どうしましたの?!」きらきらしている女の子が顔を覆っている小さい子の所に駆け寄って、どうやらさっきの強風で砂が目に入ってしまったらしい。ツインテールがふるふるとふるえたと思ったら次第にそれはぶんぶんという音に変わって…………。

「アニスちゃんのプリティなおめめに何てことするんだ砂の野郎!今すぐ死ね!滅びろ!金よこせ!!」

「何でだ?!」

「夢の玉の輿計画もこれで失敗ですねえ」

「イオンがいないと凄まじいなー…………」

小さい女の子の変貌ぶりに驚きながらも、なにか引っかかるものを覚えた。いまちょうど何処かで聞いた覚えのある単語が耳を滑った気がするのだけれど、…………何処で聞いたんだっけ?

「あっ、アニス駄目よ!目をこすっちゃ!ぱちぱちってするのぱちぱちーって!」

「ぱちぱちーですの!」

「うううう〜そんなことできないよう〜…………」

「うーんじゃあ水を貰ってこよう。アニス、あと少しだけ我慢してくれるかい?」

「ガイぃーありがとううーおねがーい…………」

おねがい。お願い。もうひとつお願い。二千年前の遺跡。赤い髪。××オン。伝えて───。

『あともうひとつ。お願いが、あるんだ。赤い髪の旅人にペンダントを渡したら、ザオ遺跡にイオンがいると伝えてくれないか。…………たぶんすごく目立つから、すぐわかると思う』

そこで男は自分がすっかりと忘れていた朱く燃える髪のけれど何処か黒猫を連想させる少年に頼まれた、もうひとつのことを思い出した。 「あ!」今まで沈黙を保っていた男が急に大きな声を出して、ルークたちはふり返った。男は足早にルークに近づいてなんだかとても興奮した様子で「なんとかオンさんは、ザオ遺跡にいるそうです!」と言った。…………なんとかオン?ルークは目つきがいいとはけしていえない翡翠を怪訝なものに変えてつまり男は真正面から睨まれる形になったのだけれど怯んだ様子を見せることもなく、「…………ええと、シオン、さん?ですか?あれ?」シオンという名前には微塵も覚えはないけれどその発音はある名前を彷彿とさせた。まさか。

「失礼。───それは、誰に頼まれたのですか?」

ルークが口を開くが早いか、ジェイドが割って入った。口許に笑みを浮かべてはいるものの眼鏡の奥の紅い瞳は笑っていない。声も一段と低く、傍で聞いていたルークたちの心臓がひやりとする程の凄みが塗り込まれていた。男はひゅっと息をのみ何度か口をぱくつかせてから 「な、名前は、わかりません」ともぐもぐと言う。

「では、どんな格好をした方に?」

「……………………くっ黒い外套で、あかい髪のっ、」

躊躇ったような間があったけれど、死霊使いの血も凍る視線に当てられてたまらず男は口を開いた。ジェイドはその答えを予想していたのか大して驚いた風もなく「ありがとうございます」と返してようやっと解放された男が全身で息を吐いたところに「ああ、すみませんー。ひとつ訊き忘れちゃいましたー」実にうさんくさい笑顔を浮かべたので男は呼吸をつまらせて変な咳をくり返した。「怪しげーな黒い外套をまとった、朱い髪の少年、ですよね?」情け容赦ないジェイドのたたみかけに苦しそうにむせながらも男は首を縦にふって答えた。

「だ、そうです。まぁ、こちらを誘い込むための罠と考えるのが妥当でしょうね。どうしますか親善大使殿?」

闇色の外套。朱い髪。何度もルークたちの前に立ちはだかりルークとひどくよく似た顔をした男。一体何を考えてそんなことを知らせてきたのか。どうしてあんなにも、同じ顔をしているのか。正体の知れない気持ち悪さが這い上がってきて、ルークは首をふって掻き消した。 …………今は考えるな。

「…………他に、手がかりがない。罠だとしてもな」

反対の意見は、上がらなかった。




時間の許す限り探してみたものの、結局男が預かったというルークに渡してくれるように頼まれたネックレスは出てこなかった。それは光に透かすときらきら光る紫色の宝石があしらわれたものだという。ザオ遺跡を目指しながら、ティアの胸は奇妙にざわついていた。

- end -