わたしのスピカA


Dear Dear Spica A

さららららら。さらり、さらさらさら。時折洩れる砂の音をバックミュージックにファントムたちはザオ遺跡内を歩いていた。極端に体力の少ないイオンの歩調に合わせているのでずいぶんとゆっくりだ。二、三歩進んでは周りの景色を眺めているようにして立ち止まり背中にきちんと足音がついてくるのを確認してまた二、三歩進む。ファントムはその久しぶりのリズムに何となく嬉しくなってけれど同時に苦しいとかしんどいとか休みたいとか泣き言ひとつ口にせずあまつさえ苛立たしげに見つめた視線に荒い呼吸を押し殺して柔らかく微笑んでいた姿を思い出してしまって、あー、馬鹿だ。本当に、俺って馬鹿だ…………。あのときイオンはどんな気持ちですみません、と笑ったんだろう。重い体で引力に逆らって歩くことの辛さは充分知ってる。




気の遠くなるようないつかの日に、戦闘で足を痛めたことがあった。幸い誰にも見られることなく、不幸にも道具袋にはチーグルしかなかった。貴重な回復術を使ってもらうのは躊躇われたし、強引に引きずって歩けないこともなかったので、どうしよう、言った方が迷惑にならないか言わない方が迷惑にならないか考えあぐねていたちょうどそのとき、風が吹いた。短くなった髪が、首元を、撫でる。肌を這うようなその感触が、消してしまいたい過去の自分を思い出させて絶えずつきまとっていた恐怖が貫いた。思わず肩をさすっていると何してんのよう追いてっちゃうよう、とからかうようなアニスの声が響いて、一瞬ひやりとした心臓をごまかすように笑ってひらひらと手をふった。それから一時間半、ジェイドがこの辺りで休憩をしようと切り出すまで何とか歩ききった。近くに潜んでいた魔物や追い剥ぎをあらかた殺して、辺りにホーリーボトルを三本ほどふりまく。(二本でも充分すぎると言われたけれどこっそり三本目をくすねた。でももしかしたらあの紅い瞳はすべてを見通しているかもしれない。……そんな気がする)頬についた返り血を乱暴に拭ってため息をこぼす。彼らに出会わないことを、切実に祈った。ようやく腰を落ち着けてひとごこちつき、少しは足の具合もよくなるかもしれないと胸を撫で下ろしたのだけれど、およそ三十分程度の休息はあっという間に終わり気合いを入れて立ち上がろうとした瞬間、激痛が走った。首をふってもう一度同じ動作をくり返してはみたものの右足は爪先を地面につけるだけでも痺れるように痛んで立てず、これじゃあ歩くこともままならない、とルークは青ざめた。どうしようどうしようどうしよう、なかなか立ち上がろうとしない自分をガイがティアがジェイドがアニスがナタリアがイオンがミュウが、いぶかしんでいるのがわかったけれど足はめちゃくちゃ痛くて情けないことに鼻だかのどだかの奥の方がつんとしてくるしくそどうして立てないんだよう。覗き込んでくる紺碧や空色や菫に深紅や翠、夏草、胡桃色が全部煩わしくてうつむいた。そうだよあるけないんだこんな役立たずは、すててけばいいだろ。すると水のにおいが鼻をくすぐって、何故か右足が誰かの両手にそっと包み込まれたような暖かさを一瞬だけ感じて目を見開く。「イオンさまっ……!」驚いて顔を上げると、華奢な体がくらり、と傾いていた。膝が完全に崩れ落ちる直前にアニスが体を滑り込ませてけれど支えきれずに尻餅をつく。その小さな手の平には一点の迷いなどなくしっかりと大切な人を大事そうに抱え込んでいた。ストロベリーのお尻を泥でぐちゃぐちゃにしてよかったあと笑った彼女が、騎士みたい、とても格好よかった。その後、噛みつくようなアニスの説得も虚しくもう少し体を休めた方がいいという皆の提案をイオンは柔らかな口調で頑なに拒んだ。ジェイドは頭の痛そうな仕草をしてまるでルークを見るような目つきで彼を見た(のは、これが初めてかもしれない)「、すみません、ルーク。少しだけ、肩をお借りしてもいいですか?」そうすれば歩けると思うので、と微笑んだ彼はルークの返事を待たずに手を差し出す。目の前に広がる翠と白をぼんやりと見つめてやがてルークは縋るようにその手を掴んだ。反射的に瞳は閉じたけれどいつまでたっても痛みはやってこないので、ある確信が胸を撫でていく。そうだったよ。イオン、お前はそういうやつだった。自分のことなんて一番最後で下手をしたら微塵も考えていないときもあるんだろう。現に今、イオンはイオンの体のことなど考えないで他人のために回復術を使ったし肩を借りると言っておいて、本当は、ルークに肩を貸しているのだ。みんなに気づかれたくないと心の底から思いながらけれど何処かでは大声で痛いとわめいてしまいたかったルークの気持ちもぜんぶ、そっとなぞってくれて。「ルーク、大丈夫ですよ、」と、さわり、風が吹いてルークの背中を撫でていって、優しい言葉がひたすらそそぎこまれる。

「お腹が減ったときはどうか教えて下さい。僕、ルークの好きなチキンとそら豆のグラタンを作ります。もちろん料理上手なアニスに教えてもらいますから安心して下さい。もしもルークがそこに咲いているマーガレットを見ていたいなら僕、ずうっと一緒に見ています。……足を挫いてしまったときは堂々と胸を張って痛がっていいんです。ルークひとりくらい、僕だって背負えます。途方もなく寂しくなってしまったときや苦しいとき、悲しいとき、あなたが怒っているとき、どうか声を上げて。僕は、僕だけじゃなくて、ティアやガイやミュウ、それからジェイドやアニスも、みんな、決してあなたを置いていったりなんてしない。だからルーク、もう、大丈夫なんですよ───」




そして宿屋に着く頃には足はすっかりよくなっていて何とか最後までみんなに隠し通すことができたことにほっとしているとイオンと目が合って、よかったですねと暗に微笑んでいて、ありがとう、ルークもひっそりと口をぱくつかせた。内緒の遊びみたいで少し楽しかった。 「ああ、ルーク。そういえば、足の具合はどうですか?」まるで今晩の料理当番を訊ねるようなジェイドの口調に、ルークは「あ、もう平気。ありが…………、」その後はゆっくりと真綿で首を締め上げられていくような鬼畜眼鏡の説教が待ち受けていてさらにドアから洩れた声を耳ざとく拾ったティアが乱入したおかげで(ジェイドが普段よりも声量を上げて喋っていた理由はティアが飛び込んできたのを見てにたり、と口を歪めたところで気づいた)二時間延長されて本当にもうばかなんだからでそれも終わりが見えてきたころ最悪なことにナタリアまでもが扉を蹴り破らん勢いで飛び込んできてああまた二時間くらいかなと遠い目をしていたら甘かった。何となく一緒に正座をしていたイオンはいつの間にか消え失せていてたぶんアニスあたりが上手いことを言ってさりげなく救出したのだろうけれどそれすらも記憶にない。頼みのガイは見当たらないし、まさか巻き込まれるのが嫌でさっさと逃げ出したのかあいつ。恨みがましくそんなことを思っているとドアががちゃりと鳴って甘いクリームの香りが鼻をくすぐった。「じゃじゃーん、ア・ニ・スちゃんのフルーツグラタンだよん♪ほらほらぁ早くしないとせっかくの料理が冷めちゃうでしょー!そうなったらアニスちゃん二度と料理作らないからねっ!」見るとイオンとガイもいて何処か嬉しそうに笑ってこちらを見ていた。結局ナタリアの説教はそこでお流れとなり、まだまだ言い足りなさそうな顔をしていたけれど自身の料理の腕前がもはや神がかり的な芸術の域に達することを強く自覚していたさすがの彼女も仲間内でいっとう料理上手なアニスにそう宣言されては沈黙するしかなかったようだ。「はい、ルークの分だよ」可愛らしいハートの形をしたグラタン皿が当たり前のようにルークにも差し出されて思わずアニスと皿を交互に見てしまう。あんたって最低、心底軽蔑するように吐き捨てられた記憶はまだ新しくて、自分にもくれるなんて微塵も思ってなかったから少し感動した。

「あっ、あのねえ当ったり前でしょっだっていちおうほらアレじゃん!だからこーゆーことはふつうでだいたいあたしはそんな根暗ッタみたいなことしないっつーのガイうっさいイオンさまも黙っててくださいさあほら食べるの食べないのルークだけにんじんさんご飯にするよっ!?」

イオンはさらに微笑みを深くしてガイもだらしなく頬を綻ばせていた。いや、ガイやイオンだけじゃなくてみんなが笑っていた。あのジェイドですら嫌味のない笑顔を浮かべているのに、アニスだけが怒っている。彼女の言うあれとは何だろうと首をひねりながらもフォークを入れた。あちっ、舌を焼き切られそうになりながらもほおばる。最初にバナナの甘さがふわりと広がって次にたぶん桃で、苺の甘酸っぱさが舌を和らげた。温められた果物の優しい味にびっくりしてしまって「うわあ…………、」とか口走ってしまった。

「おやおや女性が心を砕いて貴方のためだけに作って下さったのを、うわあ、の一言ですか」

「だっ、だってこれ、うわあ……!」

馬鹿にする気も起きないらしくジェイドはただ純粋に呆れていた。

「ふっふっふっふ、アイスクリームとかのっけてもちょう美味しいのだよ!でもさぁルーク、あん まり甘いのキライでしょ〜」

アニスが誇らしげに胸をはっていて、みんなに賛同を求めようと首を回したルークはあることに気づいた。イオンを始め、誰ひとりとして持っていないのだ。甘やかで優しい味のハートのお皿に盛りつけられたグラタンはルークだけのデザートだった。それで特製バナナクリームにしてみたんだけど大成功って感じ?わっはアニスちゃんってばちょうかわいいさいこうとか明後日の方を見てべらべら喋り続けている。ガイがそっと耳に口を寄せてきて「イオンがさ、お前さんの大好きなチキンとそら豆のグラタンを作りたいって言ってな。けれどアニスが、旦那とティアとナタリアのお説教で疲れてるだろうから甘いのがいいって、それでこうなったんだ。皿もハートだ なんて妬けるねぇ、ルーク」腰に手を当ててちょっとおかしなことをべらべらと喋っている後ろから覗けたアニスの耳は赤く、染まっていた。



「、ファントム?大丈夫ですか、」

いつの間に足を止めていたのか真横にイオンがいた。5センチ下から不安そうにこちらを見上げていたので、慌てて、大丈夫だという意思表示と感謝の気持ちをこめて頭を撫でようとしてふと違和感、その存在を証明するようにポケットの奥が、しゃらりと音を立てる。手の平で、きらきら、きらきら、宝石はただ美しく微笑んでいた。

- end -