わたしのスピカ@


Dear Dear Spica @

その日、不思議な少年と出会った。このくそ暑い中で彼はよりにもよって真っ黒な猫のような顔も満足に見えない外套に身を包んでいたのである。(砂避けとかはわかる。でも日光を集めやすい黒色なんてわりと自殺行為じゃないか)生来の自分の性格からすると、生誕の預言に、ND2018黄砂が舞う砂漠のオアシスで闇色の外套に身を包む若者に出会うだろう。難を逃れたくば彼を助け導きなさい。さすれば九死に一生を得るでしょうとでも詠まれていなければ絶対関わらないと断言できる。けれどその少年は砂漠で倒れていた自分を助けてくれたのだ。太陽が無遠慮に照りつける中、完璧に意識のない大人の男を独り背負って黄砂に捕らわれる足で歩いてくれた。ひどく重かっただろうし鼻が曲がるような悪臭を放っていたと思う。それでも彼は、自分を見捨てはしなかった上に、眉をひそめたりしないで冷たい水を飲ませてくれた。だからこそ、優しい黒猫みたいな少年のお願いを叶えてあげたいのだけれど。



「うわああああんもうあっついようってかイオン様はどこだっちゅーの!あいつらまじブッ」

「アニース。ルークが見てますよぉ?」

「えへぇ!(わたしの)ルーク様あ、アニスぅもうくたくたで歩けません〜。だからあおぶっておぶ ってぇ?」

と実に可愛らしく小首を傾げたりこぼれそうな瞳を潤ませてルークにねだった。それを聞いたナタリアがさっと形のいい眉を吊り上げて額に血管を浮かせたのでルークは冷や汗を流しながらも何とか(ひきつった)声を出して少女のお願いを断った。

「み、水をもらってきてやるから勘弁してくれ……」

するとアニスは猫を7匹くらい連れてる声にさらに演技がかったものを足して「あれれれれれ?」と言ったのでわりと嫌な予感が全力でルークの脳裏を突いたのだけれど律儀に「なっ、なんだ……?!」と先を促すような発言をしてしまった。にたぁと、アニスの唇が完璧な三日月形に歪められる。後にその顔はまるで化け物みたいでしたのとチーグルは語った。

「確かぁ、こないだどこぞのお姫サマをお姫サマ抱っこしてませんでしたっけぇ?」

「ぶほっ……!」

ルークが盛大に吹き出してさらに聞いてる方が痛くなるような咳を何度もくり返す。しかし少女は無慈悲にも生まれたての子鹿のような少年をひとかけらの容赦もなく、叩き潰した。「やっぱりぃアニスじゃあ、駄目なんですねぇ……。くすんっ(いひひひひひひっ)」と実にしおらしい表情を作ってみせたけれどガイたちは悪魔の笑い声をしっかりと聞いた。楽しんでる。玉座に座るかもしれない少年をのたうちまわらせて楽しんでる……!

「はっはっはっはっ。それはアニスが痩せすぎだからじゃないですかぁ〜。野郎としてはティアやナタリアの方を歓迎しますよ」

アニスはジェイドの言葉を何度か反芻してそれが一等の痛烈な皮肉であることに気づいた瞬間、般若と化した。しかし相手はあの死霊使い。逆立ちしても勝てる相手ではない。賢い少女は顔面の筋力を見事に支配して無理やり笑顔を作り愛らしい喋り方に地を這うような声で言った。

「…………たぁぁいさぁ〜〜それどーいう意味ですかぁ?」

「ルークの両腕はナタリアの料理を作るためとナタリアにいやらしいことをするためにあるんですよね?」

「ご主人様の料理はとっても美味しいですの!」

ジェイドは彼女にはまったく取り合わず、さらに最悪なことにすました顔で新たな火種をぶちまけた。その上青いチーグルの無邪気な笑顔も拍車をかける。ナタリアが「まあ、ジェイド。ルークを侮辱なさらないで!」と些か間違った方向でぷりぷり怒りだし、ルークは顔を赤というよりはどす黒く染めていて呪いの言葉を吐こうと口を開いても結局何度かぱくつかせるだけに終わりさらに言葉では言い表せないと悟ったらしくついに剣に手がかかったのでさすがにガイ・セシルは苦笑まみれに止めた。

「アニスにジェイドの旦那も!これ以上ルーク様と姫をからかわないでやってくれよ」

「ぶぅぶぅぶぅぶぅぶぅ……!」

「はは、水をもらってきてやるから。……お姫様抱っこはマジで勘弁してください」

一生懸命な彼にアニスは「わっはぁ〜!ガイだーいすきぃっ!」とにこりと笑ったけれどナタリアは恨めしそうな夏草色をガイに向けて小さな子どものように突きだした口唇からは「もうっ。敬語はお止めになってと再三申し上げたのに」という言葉が飛び出した。さらに彼女はぶすっとした表情で続ける。

「……わたくしたちは、幼馴染みでしょう?どうしてそのように他人行儀になさいま、」

紡ごうとしていた言葉は喉の奥で色を失った。微笑んだ。彼はいま、微笑んだのだ。けれどナタリアは女性なら誰でも胸を高鳴らせるようなその甘い笑顔の何かにくらくらした。いつのまにか舌は勝手にもつれていて彼の名前を呟いている。空気が震えて、ガイが笑ったことがわかった。

「これは、失礼。俺はファブレ公爵家のしがない使用人なんですよ。本来なら雲のようなお人と、貴女と、口をきくことすら許されていないのです。恐れながら、姫。お分かり頂けますか?」

それでも毅然と言い募ろうとしたナタリアをルークが制止した。びっくりしたような草色ときりりとした翡翠玉が絡まってそしてルークは首を横にふってナタリアの耳元に口を近づけると彼女はもう何も言わなかった。ルークは彼女を自分の背中に追いやって「ガイ・セシル、」と彼のリアルネームを呼ぶ。一瞬にして雰囲気が変わった。

「此度の旅は非常事態であって我々の想定外のことだ。よって、主人と使用人という、常時の関係は忘れてもらってかまわない。キムラスカとマルクト間を行き来する我々にはその方が何かと都合がいいだろう。万が一、彼女の、やんごとなき身分が露見すれば下種な輩どもに襲われる可能性もある」

アニスの胸が、震えた。ルークの頭にきらきら光る王冠が見えたような気がしたから目を何度もこすってしまって瞼が鈍く痛む。大佐を盗み見ると(気休めの)興味深そうに彼を見つめていたのでもしかしたら同じものが見えたのかもしれない。


「……ルーク様の、ご命令とあらば」

そう言って、彼は優雅に微笑んだ。




一転してしまった雰囲気はガイがにっこりと笑ってみんなも喉渇いただろうから水を貰ってくるよと言って所々は元通りになった。「うーんでも俺ひとりじゃなあ……」その言葉に目を剥いたのがアニスでぶんぶんとツインテールをふり回して意志表示をする。ジェイドは不自然なほど大きめな擬音をくり返し口にしていて(つまり非常に演技がかっている咳)……何だか「この年寄りを使う気ですか最低ですねぇ」とか言われそうな感じだったので少し大きめの声でティアを呼ぶと「えっ、あっ、ごめんなさい。なに」彼女の紺碧が珍しく揺れた。ガイはいつも通りを装って「水を運ぶのを手伝って欲しいんだ」と言った。




頭を掻きむしると鮮やかなサンセットローズからさらさらと砂がこぼれ落ちた。ついでに隠しきれなかったため息も。「……平気なんですの、」あなたは、と真っすぐに見つめてくるナタリアの双眸に若干居心地のよくない気分になりながらもルークはなるべくどうでもよさそうに呟いた。「、あいつは使用人だろう」一段と低くなった声にナタリアは目を瞬かせる。さらに先程何か押し殺すように「これが身分な んだよ」早口で囁かれた理由も納得がいった。ああ、だってわたくしたちは幼馴染みなのにと子どものように駄々をこねていた自分が恥ずかしい。ルークだって、たぶん今のように必死で無表情を作っていた筈で、やはりあなただって寂しいのだ。王族であるという誇りからそれを許さないだけで。

「……ごめんなさい。やめますわ、わたくしも」

ルークは何も訊かなかったしナタリアも何をとは言わなかった。



「知り合いなのかい、」

水を汲む彼女の手が少し迷ってそれから喉がひくりと鳴る。「あいつと」ばっさりと言い切ったガイにティアはばつの悪そうな表情を浮かべたけれど瞼を開いて閉じた一瞬間後には彼女は冷たい仮面を被っていたのであーあこれは口を割ってはくれないかなと苦笑しつつもガイは食い下がった。「だったら、しんどいだろうなあって思ったからね」ティアは存外、簡単に緊張を解いてくれたようだった。ほう、と息を吐いてそれから目の覚めるような青を見上げてぽつりと、言った。

「うたが、聴こえるのよ」

予測もつかなかった答えにガイは少しびっくりしてわりと普段の彼とはかけ離れた調子でティアの言葉をくり返す。

「もの心つく前から、わたしの世界はうたで溢れていたわ。世界は何てうるさいんだろう。みんなは平気なのかしら。と不思議でしょうがなかった。……その頃は大人になったら聴こえなくなるとばかり思っていたけど大人になったらなったで音律士はみんなわたしのようにうたが聴こえると思っていたの」

ティアは困ったように微笑んだ。

「それは音律士だから聴こえるわけじゃあなくて、ティアだから、ティアしか、聴こえないってことか」

ガイは言いながら笑い出しそうになってしまって必死に表情を取り繕う。彼女の目にはたぶん想像もつかない世界の話を懸命に咀嚼しているように映っただろう。生憎と、彼女の世界が果てしなく遠い彼方にあるものではなくて、もっともそれはもの心つく前からでもなし、深淵から這うように轟く一族郎党や姉上のガイラルディアと呼ぶ声だけど、まあ何となく彼女の耳をふさぎたくなる気分もわかる。

「……じゃあ、その歌っていうのは?」

だってそれは「ルーク」を愛しく思うのに、ガイに暗澹とした思いを抱かせ過去へと縛りつける面倒なものでしかないから。「……人に説明するのは難しいのだけれど、」とティアそう前置きをして説明を始めた。

「わたしたちはね、みんなうたっているの。音素振動数がひとつとして同じものがないように、ひとりひとり異なる音楽を奏でている、みたい。うた、というか正確には旋律が聴こえると言った方がわかりやすいかしら。理由はわからないのだけれど、わたしはそれを知覚することができて、…………彼、とは、別に知り合いとかじゃなくて。だだ、そのうたがとても優しい、から。だから、」

寒さに凍えた体を暖めてくれる暖炉の火のような赤い髪を持つ彼から聴こえてくるうたは、ティアが遠い何処かに捨ててきてしまったものを思い出させて、少し、苦しくて、そしてあまりにも、やさしい。たとえその苦しさが胸を突いて咄嗟に顔を覆い隠した手が涙でぐしゃぐしゃになってもどんなにか彼の隣でそのうたに耳を傾けていたいと思っただろう。(でも、わたしの手の平は真っ赤に汚れているから、無理なのよね)

「………………そう」

ガイの発した言葉はとても短くてそっけないものだったけれど、いっとうに優しさが滲んだ声だった。じっと両手を見つめていたティアの視線が思わずガイに移ると彼の水色の双眸が見たこともないような穏やかさを含んでいて口元にはふわりとした笑みをたたえていた。それは兄が自分を見守ってくれるときや尊敬する教官が向けてくれるものとひどく酷似していてティアは目を丸くする。彼は、もしてかして。

「……ガイ、あなた、」

続くはずだった言葉は突然あがった悲鳴にかき消された。



「ひっぐ。ぐすっ。うぐっ。ぐすんぐすん。うええっ」

体裁とか格好とか矜持とかそういった類の単語はこの男の頭には刻まれていない、いや存在していないらしい。ひどく粗末な格好をした優男はへたりこむ気も起きない自然の砂の床ばりに座りこんで盛大に鼻水を垂らしながら号泣していた。おざなりに制止するジェイドをナタリアがふり切って「あなた、どうしましたの?」わざわざそいつと同じ目線になるようにしゃがんでやわらかく微笑んだ。ぴたりと、気の弱そうな男は動きを止めてゆっくりとナタリアを見つめる。やっと目が合った彼女はにっこりと笑って「さあ、涙をおふきになって。泣いてばかりではあなたをお助けすることはできませんもの」みるみる男の瞳から新たな涙が落ちて「……うおおおおおおおおんっ!」とナタリアのそのほっそりとした腰に両手をまわそうとして、実は気にくわなくて無表情を貫いていたルークの理性は消し飛んだ。

- end -