あなた、許してください


God granted my prayer.

「ただいま、ティア」ああ、なんてかんびなゆめ。気づかないふりをすればいい、気づいてはいけないの、ティア。ね?とにっこりと微笑む紺碧にわたしは笑った。舌足らずな声はとても嬉しそうにさしだされたそのてをつかんでそのままむねにとびこんでキスをしてすきよとささやいてしまえばいいと言う。わたしはゆるゆると首をふった。(だってこれはわたしがずっとゆめみた結末そのものでそしてわたしはこんな結末を望んでなんていないから)するとその子どもの顔は色を失くして、やめてやめてと血を吐くように髪をふりまわして叫んだ。そんな子どもの首を必死でつかんで目の前に立つ人の瞳を見つめると、残酷なほどにわたしの愛した宝石じゃないことを悟って、その瞬間、子どもの首がちぎれた音を聞いた。「みくびらないで」夜の渓谷に、渇いた音がこだまする。ティアの行動に誰もが驚いたように目を丸くした。「みくびるなっ、アッシュっ……」喜劇の住人になるには、ティアは彼を愛しすぎたし、何よりも彼女の矜持が許さなかった。




肩口まで伸びた毛束を後ろでねじりあげた蜂蜜色と首回りと胸元を大きく刳ったビスチェが露わな彼女の首をいっとう儚げに見せた。うつむくと、薔薇の刺繍が大げさなほど刻まれたマリアベールに隠された波うつような後れ毛が、ゆれる。額を飾る唯一の宝石がきらきらと光って彼女の美しさを際だたせていたけれど、表情は暗い。幼少の頃から思い描いてきた結末が叶うことが、あまりにもあまくて、おそろしかったからだ。不意に扉を叩かれて、心臓が跳ねる。続いて鈴を転がすような声が聴こえて呼吸が止まった。からからに渇いた口を懸命に動かして何とか応えた。「……きれい、とってもきれいよ」ナタリアを見るなり彼女は感嘆の声を洩らした。心の底からそう言ってくれているのが伝わって苦しさが胸を塗り潰す。「ありがとう。あなたに会えて、わたくしはとても嬉しいですわ」そう言おうと口を開いたけれど言葉にならなくて、ナタリアはうなだれた。(なんて、臆病なのかしら)ティアは静かにナタリアに近寄って彼女の手をそっと握りこんで微笑んだ。「おめでとう、」その一言にナタリアの涙腺は決壊した。ぼろり、と一粒が零れてそれから次々と溢れてくる。「ごっ、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ、てぃあ、ごめんなさいっ……」あの日帰ってきたのはナタリアの愛する人で、子どものように笑うもう一人の幼馴染みは帰ってこなかった。混乱する仲間たちにジェイドはルークの記憶を引き継いだアッシュという現実をただただ淡々と淀みなく突きつけた。それでもナタリアはどんな形であれ目の前で息をしてあたたかいことに歓喜し、奇跡に感謝していた。…………卑劣な心は、確実に、大切に思っていた筈の親友や幼馴染みの気持ちを黙殺した。ティアが絶望にうちひしがれている中、わたくしはどうしようもない幸福に包まれていた!「消えるのはルークだったんですよ」常とは変わらない、いやそれ以上に冴えた呟きがひどく響く。「勘違いでよかったですね」そうして彼はピジョンブラッドを細めてつまらなそうに言った。瞬間、彼が生きて帰ってきたことを言外に責め立てているように聞こえ怒りが湧いて、しかしその瞳が激情を孕んでいることに気づく。さらに真っ赤な鏡に映し出された自分の姿を見て犯した過ちに息を呑んだ。ああ、彼は、レプリカというだけで記憶も体も髪の毛の一本すら残せない彼の運命を静かに憎んでいたのだ。そしてわたくしはなんてきたないの。泣きたい気持ちを隠してよかったわねと笑ってくれたティアと、彼女のいっとうに大切なひとを忘れた上にどちらも大切なのだから生きて帰ってきてと言ったのに、この心は。自分を許せないというよりは醜いことを認めたくなくて、懸命に、ひとり死んで逝った彼を想った。どうして神様はこんなにも残酷な仕打ちをするのでしょう。どうして彼に、何も残らないのでしょう。あんなにもこの世界を愛してくれていたのに、世界は、わたくしたちは、彼になにひとつ、してあげられなかった。ああなんて、かわいそうなルーク。ああ、なんて、なんて、なんて。虚ろな瞳からは、簡単に涙がこぼれた。「……ナタリア、ありがとう。俺、幸せだったよ」そう言 って優しく背中を撫でる彼に、ナタリアは何度も首を横にふった。ちがう、これは、わたくしは、わたくしのために…………!「ひっきょうものっ、わたくしはっ、ひきょうものですわっ。あ、あなたに、わたくしは、」彼の記憶を持った彼を愛することに、罪悪感があった。けれどこの汚い化け物のような戀心は止まらなくて、ときどき彼が彼女を想ってやわらかくなる翡翠色に嫉妬もした。いつだってわたくしは、わたしの為に泣いているのだ。「……くやし、かった」ぴくん、とナタリアの薄い肩が揺れる。「とっても、くやしかった。どうして、彼、は、帰ってこないの。どうして、思い出まで、思い出すら、うばわれなきゃいけないの。……どうして、ルークは、しあわせになれないの、って」ティアごめんなさい、そう叫びそうになったナタリアの口唇をひとさし指でやわらかく遮った。「ねぇ、ナタリア。信じてもらえないかもしれないけれど、わたし、うれしかったのよ。あの人が帰ってきてくれて、うれしかった。ナタリアの、恋が叶って、わたし、本当に、うれしかったの。だからお願い、」するりと両手を伸ばしてナタリアの頬を包みこんだ。その手の頼りない感触に、彼女がどれほど苦しんでいたのか知れて「ごめんなさい」口をついて出た。紺碧の瞳がやわらかくナタリアを見つめる。「しあわせになって、ね。ナタリア。ぜったい、ぜったいしあわせになって」ティアは、見たこともないほど綺麗に笑った。さらに薄く引かれた桃色のルージュが彼女を女神めいて見せる。苦しさに涙が止まらない。その言葉をナタリアも送りたかった。何よりもしあわせであるべきはあなたたちで、そんな資格など自分にはないのだ。本当に、不器用なあなたたちが大好きだったのに。唐突に耳の奥のもっと奥の方で声がして「あ、」無彩色の世界が次第に芽吹いていく。(なれよ、ぜったい)(おまえはぜったい、)それは、ティアがこの部屋を訪ねてくる前にわたくしが見た、都合のいい、ゆめ。………………その翡翠色にナタリアを映して、彼は照れくさそうに頬をかいてきれいだと笑った。





まあ、そのような台詞を軽々しくおっしゃらないで。ぴしゃりとそう言うと小さな子どものように眉 を下げたので、ふふ、褒めて差しあげてもよろしくてよ少しは女性を喜ばせる腕をあげましたの ね、と言った。するとなんだよそれと口を尖らせる。笑いながらも、記憶のものとまったく違わず 変化のない彼の姿に、胸が痛んだ。彼の腕が伸びて頬に触った。え、な、ないてなんかいま せんわ。お前、泣き顔なんか似合わないよと一方的に言われて脇の下やら色々とくすぐられ てほら笑って笑ってと無茶なことをほざいている。ひとしきり笑った後、なっ、なにをなさいます のっ、思わず彼を腹の底から怒鳴り飛ばした。ついでに拳も。彼は痛ててとぶつくさ言いなが らそれでもとても嬉しそうな顔をして、よかったな、ナタリア。よかったなあと微笑んで、それか らくるり背を向けた。その背中がだんだんと光に溶けていってるような気がしてナタリアの肌が あわだった。待って、待ってくださいましっ、わたくしはまだあなたに、崩壊していく世界の中、 砂のように消えていく体で、彼はこちらをふり返った。 ……俺さ、俺のこと、大切な幼馴染みだって言ってくれてすげえうれしかったんだ。 俺も、おんなじだよ。おんなじくらい、俺も、ナタリアが大切だよ。 だからさ、






障気を消した後の、何かを押し殺すような見ているこっちが痛くなるような寂しそうな笑顔では なくて、それは心からの屈託のない、


しあわせになれよ。





愛しい幼馴染みの笑顔、だった。


「、彼も、そうおっしゃってくれました……」 夢で。 ティアの心は一瞬傾いたようだけれど、そうルークがと静かに頷いた。 「……でも、ひどいわ。わたしの夢にも、出てきてくれないのに。ちょっと、むかつく」 と彼女が憮然とそしてあまりにも潔く言うのでナタリアは泣きながら何だか可笑しくてお腹が 痛くなった。「照れてるんですのよ、」ティアはそうだと嬉しいわね、やはり少しおもしろくなさそ うにけれど何処か楽しそうに呟く。ナタリアは手できつく瞳を擦りそれから息を整えて言った。 「ありがとう、会えて嬉しいわ、わたくしの大切な親友」 施された化粧は涙と鼻水の跡で目も当てられないほど台無しなのに、毅然と顔を上げて笑っ た彼女をティアはとても美しいと思った。 「ええ、しあわせにね、わたしの大好きな、親友」 心からそう祈ってナタリアをきつく抱きしめた。




「わたし、あなたのことなんて大っ嫌いよ。オリジナル、というだけで、何もかも彼からとってし まうんだもの。そのうえ、わたし、わたしたちと過ごした記憶まで。あなたなんてだいっきらい。 あなたの顔なんてみたくもない、だから、……だから。絶対、ナタリアをしあわせにしてあげて」 どん、アッシュの胸板を叩いた。「ああ、誓う」と短く言うと、泣かせたら承知しないから、彼女 は踵を返そうとして何か足りない気がしたアッシュはその背中にこう投げかけた。「、お前も、 しあわせになれよ」ティアの歩が止まりそれからくるりと反転して「あなた、もうちょっと女心を 勉強した方がいいわね」と頭を抱えて言われた。思いがけない彼女の言葉に「は?」間抜け な声が飛び出る。彼女はからかうように「奥様に逃げられても知らないから!」そう微笑んで颯 爽と去って行った。これ以降、彼女の姿を見ることは二度となかった。





旅に、出よう。 最初はやっぱりタタル渓谷、かしら。 その次はエンゲーブで赤く熟れた林檎を一つ買って甘酸っぱいその実を囓りながらわたしはこ う笑ってやるの。箱入りすぎるのも困りものだったわねって。そしてあそこの宿屋に泊まってあ なたの小さな子どもみたいな寝顔を思い出すのもいい。その次は、チーグルの森へ行ってお 腹が空いたらあなたが嫌そうに食べていたおにぎりをこしらえる。そうやってあなたの足跡をひ とつずつ辿っていって、ついにおばあさんになったわたしは旅の途中で命を落とそう。 「ねぇ、しあわせになんて、なれないのよ」 愛しい記憶なんてあったって、あなたがいなければ。



(しあわせになることも、だからといってあなたの所へ行くことができないわたしも、どうか許し てねそしてどうか待っていてね。わたしが消えるその日まで。)

- end -