罪に罰に無遠限のあなたに、この心臓を捧ぐ


My Dearest Wish

ナタリアから手渡された帳面を手にとろうとして、やめて、やっぱり手を伸ばして、やめて、………………やっぱり手にとった。



あなたが持っているのが相応しいと思いますわ、そう言ってナタリアは扉の向こう側に消えた。頬にはいくつもの涙の跡が残っていた。表紙をそうっと撫でる。一回、二回、三回、四回、五回。ティアは緊張をほぐすように息を吐き出して帳面に手をかけた。室内に乾いた音が響く。彼の言葉を辿りながらティアが感じたことが鮮明に思い出されて、そういえば出会った頃はお店のリンゴを勝手にとって食べてしまうくらいお金の使い方も知らない箱入りだったわねとか自然と笑みがこぼれた。だんだんページをめくる速度は遅くなり口元がひきつっていくのがティアにもわかった。指がおかしいほど震えてしまって帳面をめくることができない。唇を噛みしめる。この臆病者!逃げ出しそうになる自分を必死で叱りつけて無理やりめくろうとするけれど手の震えはおさまることはなくめくりそこなってついには日記を落としてしまった。「ああっ……、」慌てて拾いあげて、埃を払う。偶然開かれたページにティアは目を見開いた。帳面を持つ手が強くふるえだす。だめだめだめだめよ。私は認めることになってしまうから。そんなの、ぜったい許さない。約束をしてくれた。必ず、帰ってくると。だから私は絶対泣かない。兄さんとさよならをしたあのときもわたしは泣かなかったじゃない。だいじょうぶ。でも、これは、反則だ…………!たえられなくなって、ティアは日記を放り投げた。鈍い悲鳴があがるのを遠い世界のできごとのように感じていた。耳元で彼の感情を抑えたような声が聞こえる気がしてそれ以上それを聞いていたくなくて手をめちゃくちゃに振り回した。それでもかなしそうな声は止まらなくて、あのときの映像もゆっくりとフラッシュバックする。


後ろ姿。朱い髪。笑い顔。(いかないで)笑い顔。後ろ姿。朱い髪。消える。約束。(いかないでいかないでいかないで、)崩れ落ちる建物。朱い朱い太陽。後ろ姿。笑い顔。約束。崩れ落ちる、建物。(死なないでっ……!)


消えた?「っ、うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいっ……!」強く耳をふさいで、その場にしゃがみこむ。これじゃあまるで聞き分けのない子供だ。わかってはいたけれど、ティアにはどうしようもなかった。私は最低だ。たぶん無理だと頭の片隅で思いながら彼に言わせた。あのときどんな気持ちでわたしのわがままをきいてくれた?卑怯よねメシュティアリカ。帰ってきてと口では言いながら理性では不可能だとわかっていたから約束が欲しくてけれど本当は約束なんていらなくて望むのは一緒にいられることでここで泣いたら死んだと認めることになってしまうから絶対泣いてやるもんかでもあの約束は叶うことはないと思っている自分もいて今だって日記を読み進めるのが怖くて怖くて仕方がないから途中で放棄しようとしている私は、最低だ。ティアは力なく立ち上がるとふらふらとベッドが置かれている方にむかった。誰か私を立ち直れないぐらいめちゃくちゃに殴ってくれればいいのに。



与えられた部屋の扉が叩かれると続いて控え目なアニスの声が聞こえた。太陽の匂いがするベッドにつっぷしたままティアは答える。アニスとナタリアは互いに頷きあうとドアノブに手をかけた。部屋の中にはちょうどナタリアたちから背けるようにしてベッドにつっぷしているティアがいた。その姿が何とも痛ましかった。エルドラントが崩落した日は、アルビオールの中で眠れぬ夜を過ごした。それから一日経って大佐が「世界の危機はもうありません。一日くらい許されると思いますから近くで宿をとって解散にしましょう」と提案した。誰も反対しなかった。最後までルークの日記を読むことを拒んでいたのがティアだったけれど、ナタリアが絶対にあなたは読むべきだと泣き腫らした目で主張すると彼女はもう何も言わずついにその帳面を受け取った。シーツを握りしめる手は力が入りすぎて真っ白でそれに小刻みに震えていた。歩み寄ったナタリアが無言で優しくシーツをはがしてからきゅうっと血が滲んだ手を握りしめ、アニスもやっぱり無言でベッドに腰をかけながら柔らかにティアの頭を撫でた。左側にはナタリアが床に膝をついていて右側はベッドの上に座るアニスがいて、ようするにティアは挟まれる格好になった。しばらくは沈黙が続いたがアニスの吐息とともに吐き出された言葉でそれは終わりを告げる。「こうやってね、頭を撫でてくれたの。イオン様がわたしのせいで死んじゃったとき黙って撫でてくれたんだ。わたしが泣いている間ずうっとだよ。ずうっと。アリエッタを殺した夜もわたしが眠るまで撫でてくれた。眠れるわけないかなって思ってたらあいつのおかげで夢も見ないくらいぐっすりだった。でももうわたしの頭を撫でてくれない。もう、撫でてもらえないっ……」大嫌いだった筈なのに、いつのまにか彼はアニスの大切な人になっていた。それはたくさんの物を諦めてきた自分が必死でしがみついて失くしたくないと声を大にして叫ぶほど。どうしていないの。どうして、ここに、いないの。ぽたりとティアの頭にこらえきれない雫たちがこぼれ落ちる。その感触にきつく唇を噛みしめた。ナタリアは嗚咽を洩らし始めた少女の頭を反対の手をめいっぱいに伸ばして慰めるように撫でてやりながら言う。「ねぇティア。私は王女だというのに子供のように泣きましたわ。大佐とガイは昼間だというのにお酒を飲んでいました。アニスもミュウもみんな、彼を想って泣きました。あなただけが頑張る必要なんて、何処にもありません。ここは戦場ではないのですし王女の私が泣いたのですから、あなただって泣いていいのです」だから泣いてしまえと暗に促す友人の手に甘えてしまいそうな自分が憎らしかった。握りしめてくれるナタリアの手も頭を優しく撫でるアニスの手も全部煩わしくなって、強くふり払って立ち上がる。「やめてっ!そんな風に、みんなで泣いたりしたら彼がまるで死んだみたいじゃないっ。帰ってくるって言ったのよ?帰ってくるってっ……!だからわたしはっ、絶対、泣かないし泣く必要なんてない。だって帰ってくるって言ったもの。わたしは大丈夫だからお願いだから、ナタリアもアニスも出ていってよお!」優しくされて涙ぐみそうになったから癇癪を起こした。これじゃあ八つ当たりだ。アニスもナタリアも自分を気づかってくれているのに。何度か荒い息をくり返しているとほんの少し理性を取り戻し「…………ごめんなさい。私は平気だから、お願い」と二人から視線を外して何とか言葉を紡いだ。すると突然ナタリアとアニスに抱きつかれた。突然のことで反応できず呆然とそのまま後ろにひっくり返ったが背中を優しく叩かれると今度こそ本当に泣きそうになったので、ティアは全力で抵抗した。暴れるティアを二人はぎゅうぎゅうに抱きしめる。「はっ、はなして!」ナタリアの頬にティアの爪があたって薄く傷ができた。あっとティアは思ったが、ナタリアはかまわずに抱きしめた。「さっきの続き」アニスも力を弱めない。「撫で終わった後にあいつ必ずこう言うの。がんばったな、アニスって。だから……がんばったね、ティア」ティアのお腹に顔を押しつけているせいかこもりがちな声だった。あっだめだと思ったけれど涙がぼろりとこぼれてしまいそれから堰を切ったように溢れ出した。「っ、か、帰ってくるって。だから泣かないって思ったけど、でも帰ってなんてこないってわかってて。泣いたら、し、死んじゃったって認めることになるから。だから、泣かないように、っしてたのに……。っ、ねぇ、かえってきて。スイセンを見に行くんでしょ。行こうよ。だから、かえってきてかえってきてかえってきて。ねえ、かえってきてよぉっ……、ルークぅっ!」ティアの悲痛な叫び声にナタリアもアニスも気持ちが綻んで、涙がぼろぼろとこぼれた。二人とも、想いは同じだったから。三人で抱き合ってわんわんと声をあげて、子供のように、泣いた。



スイセンの花が咲く丘に登る、夢を見た。そんな見たこともない場所で……ティアと一緒に笑ってた。ペールから聞いた話を今になって思い出したからかもしれない。群れになって風に揺れるスイセンは涙が出るくらいきれえらしい。うん。たぶん果たせないと思うから、俺はとてもとても、うれしかった。

(はらえつものは、あなた。だから、この心臓をささげます。



- end -